23日、84歳でがんのため死去したマドレーン・オルブライト元国務長官。この世を去る約1カ月前、ニューヨークタイムズに掲載された最後の論説投稿で、プーチン大統領のウクライナ侵攻は「歴史的過ち」と警告していた。
論説は、プーチン氏が2月24日にウクライナへの「特別軍事作戦」を宣言する前日に掲載された。この2日前、プーチン氏はウクライナ東部で親ロ派が支配する地域の独立を承認すると発表していた。
オルブライト氏は冒頭、クリントン政権の国務長官だった2000年初頭、当時大統領代行だったプーチン氏と初めて会談した時の印象に言及。着席後すぐに「仰々しかった前任のボリス・エリツィンと対照的で衝撃を受けた」と述べ、「プーチンは冷静に、メモを持たずに、ロシアの経済復興とチェチェンの反乱軍を鎮圧する決意を話した」と振り返った。
この日のプーチン氏の印象について、オルブライト氏は「小さくて青白い」「ほとんど爬虫類であるかのように冷淡」、さらに、ベルリンの壁の崩壊は理解できるが、ソ連崩壊は予測しておらず「自国に起きたことを恥ずかしく思い、ロシアの偉大さを回復する決意をしている」と記録に残したという。
ウクライナの侵攻はロシアにとって「歴史的過ち」になるとした上で、プーチン氏の性格は「忍耐強く、実利的」であり、ウクライナに侵攻すれば「失敗を決して認めないだろう」と指摘。対立が中国依存度をより高めることを意識しているのは確実と説明した。
「プーチンは、例え核兵器があるとしても、第二の冷戦がロシアにとって必ずしもうまくいかないことを理解しなくてはならない」と警告し、「ウクライナは隣国が誰であろうと、主権を維持する権利がある。現代において、偉大な国々はそれを認めており、プーチンも従わなければならない」と締め括った。
オルブライト氏とは
オルブライト氏は、1937年チェコスロバキアのプラハでユダヤ人の家庭に生まれた。
ニューヨークタイムズによると、父親は在ユーゴスラビア・チェコスロバキア大使の報道官で、チェコスロバキア共和国のトマーシュ・マサリク初代大統領と後任のエドヴァルド・ベネシュ大統領の下で働いた。ナチスのズデーデン併合の結果、ベネシュ大統領が辞任し、ロンドンに逃れると、一家も移住。戦後ヨーロッパがナチス支配下に置かれることを恐れた両親は、1941年に一家をローマカトリックに改宗する決断をした。
ただし、両親は子供たちに改宗の過去は明かさず、オルブライト氏はこれを知らずに生涯の大半を過ごした。1997年に一家の過去が明るみ出ると、オルブライト氏はタイムズの取材に「わたしの父と母は最も勇気ある人々だ。誰にもできない困難な決断を下した。計り知れないほど感謝している」と語った。
戦後、プラハに戻った父親がユーゴスラビア大使に任命され、ベルグラードに移り住んだが、1948年にチェコスロバキア共産党が実権を握ったことをきっかけに、米国に亡命した。
家族はデンバーで新たな生活を開始。オルブライト氏はジョンズ・ホプキンス大学、コロンビア大学で国際関係学を専攻し、博士号を取得した。
1980年代、ジミー・カーター大統領の補佐や、ビル・クリントンを含む3人の大統領候補者の外交顧問を務めた。1993年、第1期クリントン政権で国連大使に任命された。在任中、ソマリア、ルワンダ、ボスニア内戦の平和維持への米軍介入と撤退をめぐって、当時のブトロス・ブトロス=ガリ事務総長と衝突を繰り返した。2003年に出版した回顧録「Madam Secretary」では、任期中で最も後悔したことに、ルワンダ虐殺を阻止するために「米国と国際社会が早く行動できなかったこと」と振り返っているという。
1997年、第2期クリントン政権で女性初の国務長官に任命された。国務長官時代、ボスニア・ヘルツゴヴィア、コソボ、ハイチ、北アイルランド、中東紛争の対応にあたった。コソボ紛争では、北大西洋条約機構(NATO)による空爆実施を主導した。
強い外交手腕を発揮したが、2000年に北朝鮮を訪問した際、金正日総書記との弾道ミサイルの制限に関する交渉は失敗に終わっている。また1998年にケニアとタンザニアのアメリカ大使館で起きたテロ爆破事件では、事前の警告を軽視したとの批判を受けた。一連の自爆テロにより、大使館員と民間人など224人の命が失われた。
長官職を退任した後は、2008年と2016年にヒラリー・クリントン氏の出馬を支持。2016年に民主党予備選の応援演説で「他の女性を助け合わない女性には、地獄で特等席が用意されている」と発言すると、対抗馬のバーニー・サンダー氏を支持する女性たちを侮辱したとして非難にさらされ、後に謝罪した。