ニューヨークを舞台にした日本の漫画の名作と言えば、真っ先に「BANANA FISH」を挙げる人は多いと思う。
1985年、ニューヨーク。人を意のままに操ることができる薬物「バナナフィッシュ」を軍事利用し世界を動かそうと、コルシカマフィアとアメリカ政府が手を組んだ。そんな中、ダウンタウンの不良グループを束ねる17歳の少年、アッシュ・リンクスは、実の兄を廃人にされた原因がバナナフィッシュだと知り、復讐と自らの自由のために戦いを挑む―――。
これが表のストーリーなら、心に傷を抱えたアッシュが平凡な日本人の青年、奥村英二と出会い、友情を超えた友情で結ばれる、というのがBANANA FISH の裏のストーリー。NYと権力のダークサイドを抉ったハードボイルドな世界でありながら、純粋で繊細な人物像を余すことなく描いていることが、時代を超えた名作とされる所以だろう。2002年からニューヨーク在住の筆者も、アッシュが英二に教えたマンハッタンの夜明けが見たくて、ニューヨークに行こうと決めた。
そんな裏のストーリーをめぐる舞台(と雰囲気が近い場所)を巡りながら、アッシュと英二の思い出を追体験してみた。
ロウアーイーストサイド周辺
マンハッタンのダウンタウンは言わずと知れたアッシュのホームグラウンド。ロウアーイーストサイドやその少し北、イーストビレッジ付近を拠点にしていたようだが、廃墟のような瓦礫が散乱し壁という壁はグラフィティだらけ、というかなりスラムな町として描かれる。
1990年代にニューヨーク市はグラフィティを“凶悪犯罪の芽”として徹底して取り締まったので、アッシュたちが暮らしていた頃に比べるとかなり減ったのだろうが、それでも未だにこのエリアには落書きがあちこちにある。
グラフィティはれっきとした犯罪で、落書きした人はもちろん、自分の所有地内で落書きをされて放置した人も罰則の対象になり得る。にも関わらずこれだけ至る所に落書きがある背景には、グラフィティやそれが象徴するアウトローな雰囲気を文化として残したいニューヨーカーの本音があるのだと思う。
アッシュが英二を自分のもとに置くようになってからは、古く薄汚れた低層ビルの一室でテイクアウトの日本食を食べながら他愛のない話に花を咲かせたりもした。
典型的なロウワ―イーストサイドのアパートは、Tenementと呼ばれる共同住宅。19世紀末ヨーロッパの移民が大勢身を寄せあって暮らしていた頃の建物が未だ多く残り、表の非常階段は当時、住人があふれていた頃の災害対策として予備の非常経路が義務付けられていた名残。
アッシュたちが暮らしていた頃からすでに30年近く経っているが、街並みや建物の様相自体は当時からほとんど変わっていないだろう。
ウィリアムズバーグブリッジのたもとにいかにもアッシュや仲間たちがヤサにしていそうな廃墟感あふれる建物があった。「ベアーおやじの安ホテル」の屋上では、英二が傲慢なアッシュをたしなめ言い争いになりかけるも、“大人の対応”で英二から折れて仲直り…なんていうイチャコラなやりとりがあったが、これがその安ホテル??
1980年代当時のニューヨークはまぎれもなくアメリカ随一の犯罪都市。特に当時のロウアーイーストサイドやイーストビレッジには低所得者層が多く暮らしていたこともあり、マンハッタンの中でも犯罪率が高くドラッグも蔓延していた。殺人事件の数も今とは比べ物にならず、2019年には年間300件ほどに減ったが、1980年代半ばには1500~2000件と、桁が違った。
そんな町を「俺の庭」にしてマフィアや警察とも渡り合っていたアッシュが、英二に「自分の身ひとつ守れない」と半ばあきれるも無理はない。
地下のビリヤードバー「Pink Pig」
前後するが、英二とアッシュが初めて出会ったのはダウンタウンにある「Pink Pig」というビリヤードバー。地下への階段を降りた先のいかにも不良のたまり場といったバーで、アッシュは誰にも触らせたことのない特注の拳銃を初対面の英二にためらいなく手渡し、周囲に“エイジだけは別格”だと悟らせた(本人は全く気づいていないが)。
ダウンタウンには地下や半地下のバーが点在するが、必ずしも危険フラグが立つような文字どおりアングラな店とは限らない。むしろそういう店に限って案外シックで落ち着いた健全なバーだったりする。
地下ではないけれど、イーストビレッジのアベニューAに80sの若者のたまり場感漂うビリヤードバーがあった。店の入れ替えの激しいこのエリアでは数少ない、1970年代からある店らしい。
若者、というよりは“80年代当時若者だった人”にウケそうな店なので、アッシュが生きておじさんになっていたら、たまにはGパンに白Tシャツで懐かしく顔を出していたかも。
ところで、ニューヨーク州の法律では1985年当時も現在も21歳未満の飲酒は違法。アメリカのバーやクラブでは、一見アウトローな店でも客の入店時にIDで年齢確認をするところが大半で、21歳以上と確認できないと門前払いになる。
アッシュは当時17歳、英二も19歳なので本来であれば入れない。しかもアッシュは、店内で銃を取り出し、他人に触らせ、挙句の果てにぶっ放しているが、こちらもニューヨークではライセンスなしでの銃の所持・携帯・使用は違法。
まあ「将来は希代の犯罪者になるか、アメリカのブレーンになるか」と警察官に言わしめたアッシュ・リンクスに、年齢制限だのライセンスだのと言ってもあまりに野暮ということだろう。
魚料理店「クラブコッド」と魚市場のある埠頭
魚市場に隣接する会員制高級魚料理店…というのは表向きで、実態はマフィアがかき集めた美少年たちを変態政治家に売りさばく人身取引の温床「クラブコッド」。こんな場所を思い出の地と呼ぶと少々語弊があるが、アッシュとその親友、ショーターのマフィア襲撃作戦に英二も加わり、アッシュの住む世界で逃げずに戦うと決めたという意味で、転機になった場所だ。
作中ではハドソン川沿いとしていたようだが、魚市場やマフィア経営のレストランという背景から、むしろイーストリバー沿いのマンハッタン南端近く、サウスストリートシーポートの方がイメージは近いかもしれない。現在は港町の雰囲気を感じさせる人気観光スポットの一つで、高級レストランも多くある。
ニューヨーク最大の魚市場「フルトン・フィッシュマーケット」は、20世紀の間、魚市場周辺は実際、マフィアによる組織犯罪の温床だったらしい。1980年代に入ったあたりで、この市場を牛耳っていたマフィアファミリーのドンが逮捕されたことで衰退し始め、21世紀に入ると組織犯罪撲滅を目指すニューヨーク市の管理下に置かれた。
現在、魚市場はブロンクス区に移転し、旧フルトン・フィッシュマーケットは映画館などもあるショッピングモールになっている。
「クラブコッド」はもちろん架空のレストランだが、旧市場の真向いにシーフードレストラン跡地がある。堅気の商売だったかまでは言及せずとも、少なくとも悪徳政治家が美少年の買い付けにやってくるようなレストランではなかったと信じたい…。
埠頭の入り口、旧魚市場の真向いにはアッシュたちが襲撃に使ったトラックをスタンバイしていそうな駐車場が。ここに市場の運搬車を装ったトラックを潜ませ、車内で銃を装填しても誰も気には止めなさそうだ。
アッシュたちは結局襲撃に失敗し苦肉の策で川に飛び込む。「くせぇ~」というショーターのコメントから分かるように、川の水は決してきれいとは言えない。
レストランや魚市場の生ごみの影響もあるのか、実際イーストリバーの水質汚染問題は良く知られた話で、汚染が原因で泳いでいたイルカが死んだとの逸話も。筆者もニューヨーカーの知り合いから「間違っても落ちてはいけない川」と聞いたことがある。
最近は市の努力でかなり水質改善されたらしいが、そんな川の真上に市民に愛される埠頭があるのはなんともニューヨークらしい。(後編に続く)