1998年にオレゴン州スプリングフィールドのサーストン高校で銃乱射事件を起こし、服役中のキップランド・キンケル受刑者が、ハフポストのインタビューに応じ「自分の行いにとてつもない恥と罪悪感を感じている」と話すなど、現在の考えについて語った。事件後、メディアの取材に答えるのは初めて。
キンケル(当時15歳)は1998年5月、父親と母親を射殺した後、ライフル銃と拳銃を持って学校に向かい、カフェテリアで無差別に発砲した。生徒らに取り押さえられたものの、生徒2名が死亡、25人が負傷した。翌年、仮釈放なしの禁錮111年の刑が言い渡された。
インタビューでは、後に統合失調症と診断される病から来る幻聴によって、いかに殺人に導かれていったかなど、事件の過程を振り返った。
幻聴がはじまったのは12歳で、スクールバスを降りようとした時に「お前は全員を殺さなければならない。世界中の全員を」と話す男の声が聞こえた。声はそのうち三人になり、男らは「醜く、ネガティブで暴力的な」ことを言い続けた。
キンケルは、正体不明の声はディズニーが政府と協力して行なっており、頭にはチップが埋め込まれ、声はそこから聞こえるのだと自分を説得するようになった。これと並行して、中国が西海岸を侵略するという考えに固執するようになり、これが銃やナイフ、爆発物にハマるきっかけになったと話している。
さらに他州でアサルト銃の規制が広がると、中国が侵略にやって来る前に、政府から武器を取り上げられて、自衛ができなくなると不安を抱くようになった。
事件の前年、親の求めにより心理士のセラピーを受けたキンケルは、鬱の症状が見られると診断を受けた。キンケルはこの頃、将来は米軍に入隊し、そこからCIAに就職したいと考えていた。CIAに行けば、チップを埋め込んだ人物がわかると思っていたからだという。キンケルは、鬱の診断が、入隊や銃の所持を不可能にするのではないかと不安にかられた。
事件の2日前の1998年5月19日、キンケルは友人に、別の生徒の父親から盗んだ銃に110ドルを支払うをことを約束した。しかし、銃を手にした直後に、銃の紛失の知らせを受けた刑事によってキンケルと友人は捕まってしまう。銃を失った上に、退学と前科者となる問題に直面したキンケルは、当時の心境を「この時、私の全世界が吹き飛んだ」と述べ「脅威をコントロールできるという、安全とセキュリティの感覚が消え去ってしまった」と振り返った。
警察署から帰宅する途中、キンケルは父親とバーガーキングに寄った。しかし父親は怒りのあまり、一人で車の中で食事をとるほどだったという。この時、キンケルの頭の中の声はかつてないほど強くなった。
家に帰る途中、キンケルは、父親を殺すように叫ぶ声に圧倒された。到着すると、ライフルを手にとり、父親を射殺した。声は「銃をとって、彼を撃て」「彼を殺せ。選択の余地はない」と叫んだという。
その後に帰宅した母親も射殺した。後頭部に2発、顔に3発、胸に1発を撃った。
翌日、トレンチコートの下に銃を隠し持って、母親のSUVで学校に向かい、犯行に及んだ。
キンケルは現在38歳。刑務所で大学の学位やヨガのインストラクターの資格を取得した。これまで取材に応じなかったことについて「社会の一部には暴力を美化する傾向があるが、私は自分が犯した暴力を嫌悪している。注目を集めるようなことをしたくなかった」と説明。「15歳で起こした危害に責任がある」と述べた。一方で「15歳の時に犯したことで、今38歳の自分が引き起こしている危害についても責任がある」と、インタビューを受けた理由について語った。
オレゴン州では近年、少年法を見直す議論が活発化し、州議会で2019年、未成年の仮釈放なしの終身刑を排除し、子供を大人と同等に起訴することを困難にする一方、早期釈放の機会をつくるなどの案を盛り込んだ少年法の改正案が提出された。同法案をめぐる議論で、検察や保守派は、キンケルの名前を挙げて反対を唱えた。法案は成立したものの、キンケルのような罪人の釈放の可能性に懸念を抱いた議員らは、法案が成立する以前の罪人を対象外とする修正案を成立させた。
議論の行方を見守っていたキンケルは、刑務所の仲間が社会復帰の機会を奪われることに、自分が理由に利用されているのを見て、自分の沈黙が、危害を起こしているように感じ始めたという。
自分が釈放される期待について聞かれると「長年のセラピーと自己学習で学んだことだが、期待については本当に注意が必要だ」と話した上で「(期待は)さらに苦しみをもたらすことだと思うので、考える時間を多く費やさないようにしている」と語った。