メラニア夫人 モデル時代の成功秘話

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ファースト・レディとしてホワイトハウス復帰を果たしたメラニア夫人。公に多くを語らない性格はミステリアスなオーラが漂う。1月20日の就任式では、表情を隠し、夫のキスさえ寄せ付けないつば広ハットで登場し、さまざまな憶測を呼んだ。そんなメラニア夫人がモデル出身であることはご存じだろう。スーパーモデル黄金期に20代を過ごした夫人の活躍ぶりを探ってみた。

建築家の夢を捨てモデルに転身

メラニア・クナウス氏は1970年4月26日、旧ユーゴ時代のスロベニアの南東部の都市ノヴォ・メストに自動車のセールスマンの父ヴィクトール氏と子供服工場で働く母、故アマリア氏の間に生まれた。

自著『メラニア』によると、メラニア氏が最初に目指したのは建築家だった。二歳年上の姉イネス氏を追って首都リュブリャナにあるデザイン写真高等学校で学び、大学はリュブリャナ大学建築学部に進学した。

モデルをはじめたきっかけは高校時代。スロベニアのライフスタイル誌「Jana Magazine」の写真家の目に留まったことがきっかけとなり、モデルエージェントと契約。ファッション誌の表紙を飾ったりランウェイを歩いたりするようになった。大学進学後にイタリアで開催されたモデルコンテストで優勝している。(10代の頃のモデル写真

当時は建築家になるために学業が最優先でモデル業はパートタイムだったが、22歳の頃に転機が訪れる。パリのメトロポリタン・モデル・エージェンシーとの契約という特典付きのJana Magazine主催の「今年の顔」コンテストに参加した。1位は逃したが、2位となりミラノのモデル・エージェント、RVRとの契約を獲得。ミラノに移り住み、本格的なモデルとしての一歩を踏み出した。

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ミラノでの活動についてはあまり明かされていない。本人曰く「ミラノでの成功の2年間を経て、パリに移住して新たな挑戦をすることを決意した」。

ヨーロッパでメラニア氏が狙いを定めたのはランウェイの上ではなく、「コマーシャルモデル、カタログ、広告、テレビコマーシャル」だった。その理由について、当時のランウェイではスリムなスタイルが好まれていたが、自分は「曲線的な体型」だったからだとしている。

ニューヨークに進出

人生を決定づける出来事は1995年に訪れた。ニューヨークのモデル・エージェント「ID Models」の共同創設者パオロ・ザンポリ氏の目に留まり、ビッグアップル行きを手に入れた。その数年後、同氏の紹介により不動産王ドナルド・トランプ氏と出会うことになる。

当時モデルをスカウトするために世界中を周っていたザンポリ氏は、ミラノのオーディションで会ったメラニア氏の印象を「賢さを備えたとても美しい娘だった」と振り返っている。「ニューヨークに来てマーケットに挑戦してみないか?」と尋ね、そこではもっと稼げるだろうと説明すると、メラニア氏は「非常に興味があります」と答えたという。

ミラノの裕福な家庭出身のザンポリ氏は、1994年に「エリート・モデル・マネージメント」の創設者、ジョン·カサブランカスと出会い、ニューヨークでモデルビジネスを立ち上げるよう勧められたとされる。マンハッタンのユニオンスクエアにアパートを借りたザンポリ氏はトランプ氏と知り合う。ナイトクラブ巡りの常連だった二人は意気投合し、VIP席で一緒にダイエット・コーラを飲み、セレブやモデルが溜まり場とするバーに一緒に出かけるなどしていたという。トランプ氏同様にザンポリ氏も浮名を流していたようだ。ゴシップ紙の読者にはなじみの存在だった。なお、モデルエージェントが2004年に行き詰まったことから、ザンポリ氏はトランプ氏の下で不動産業の手解きを受ける。トランプオーガニゼーションで「国際開発担当ディレクター」の肩書を得て、富裕層へのトランプブランドの物件の販売を手がけた。しかしながらこれは長続きせず、まもなく自身の不動産仲介業を立ち上げる。新事業ではモデル業と不動産仲介業を融合し、高級マンションの販売仲介に元モデルを起用して脚光を浴びた。もしトランプ氏と結ばれていなければ、メラニア氏も不動産販売をしていたかもしれない。

メラニア氏がジョン・F・ケネディ国際空港に降り立ったのは1996年8月27日だった。ザンポリ氏と同じユニオンスクエアのアパートに引っ越し、新たな挑戦を始めた。自著では「ビザを確保した後、私のプロ意識と時間厳守が顧客の支持を獲得し、バーグドルフ・グッドマンやニーマン・マーカスといった一流デパートの仕事や『フィットネス』、『グラマー』などの雑誌の撮影につながった」と語り、「業界で名を馳せた」と躍進を振り返っている。

渡米から2年後の1998年、トランプ氏とザンポリ氏主催のパーティーで初めて出会った。メラニア氏は当時28歳。50歳を過ぎていたトランプ氏は2番目の妻マーラ・メイプルズ氏と離婚協議を進めていた。二人は時間をかけて親交を温め2004年に婚約するが、年の差カップルは当時ゴシップ誌に金目当てとこき下ろされた。

2016年の選挙期間中にヌード写真が出回りスキャンダルへと発展したが、このうちの一部は2000年1月に英国版GQが撮影し3月に発売されたものだった。トランプ氏のボーイング727機内で裸でじゅうたんに寝そべったり機体の外で下着で拳銃を構える姿は、著名なフォトグラファー、アントワーヌ・ヴェルグラス氏によって撮影された。

選挙期間に味わったヌード写真を含む批判の数々がメラニア氏のメディアへの態度を一変させた。「搾取と欺瞞に直面して、私はもう一つの厳しい教訓を学ばなければならなかった。メディアや人々は、自らの利益と名声のために他人を搾取するのだ」、「このキャンペーンの一年が将来のメディアとの関係の方向性を決定づけることになった。彼らは私を決して公平に扱わない」とにじみ出る怒りを本にしたためた。

トランプ氏との交際がキャリアを飛躍

自ら「業界で名を馳せた」と主張するメラニア氏だが、その活躍はトランプ氏あってのことだとする指摘もある。

メラニア氏がニューヨークに移り住んだ当時ルームメイトだったというフォトグラファーのマシュー・アタニアン氏は、20代後半に入りモデルとして「時間切れ」に差し掛かっていたメラニア氏は、2流3流の仕事しか得ていなかったと主張している。

マリ・クレールなどでファッションフォトグラファーをしていた同氏は、メディアのインタビューで、ある時、雑誌に掲載されるのを助けて欲しいと頼んできたメラニア氏に「絶望」を感じたと明かしつつ、「彼女はいつも堅苦しかった。だから彼女は成功できなかったんだ」と語った。また、トランプ氏に出会った1998年にメラニア氏のモデルとしてのキャリアは「行き詰まっていた」とも述べ、GQなど有名誌に起用され売れるようになったのは、それ以降だと指摘した。

女優のクイン・カミングス氏は、メラニア氏の「ZEDカード」を一枚も目にしたことがないと述べ、モデルのキャリアそのものに疑問を呈した。ZEDカードは、インターネットが普及する以前にモデルらがポートフォリオを示すために使っていた一種のビジネスカードだという。さらにカミングス氏は、メラニア氏が「次に」仕事をしたのは、「ニューヨークのおじさん」と交際して有名になってからだと主張。「彼女には説明できない10年がある」と述べている。

トランプ氏との交際がファッション界で無視できない存在にさせたのは確かだろう。

婚約からまもなくアナ・ウィンターから声がかかり、2005年にとうとうVOGUEの表紙をウェディングドレス姿で飾った。さらにバロン君を身ごもると、その翌年、妊娠7ヶ月のマタニティ姿で再びVOGUEに登場する。ジェット機の搭乗口でゴールドの水着姿という奇抜な撮影について、「私はアニー・リーボヴィッツとの撮影のためにパームビーチに飛んだ。生命の素晴らしさと、新たな生命を創造する奇跡を祝う素晴らしい機会だった」、と回顧録『メラニア』の中で喜びを語っている。

かくしてスロベニアで建築家を目指した少女は、努力と才能、美貌、偶然の出会いによって世界的な注目を浴びる存在へと上り詰めた。スポットライトの多さがその人を定義づける世界にあって、物静かな姿勢を貫くメラニア氏の成功は多くの示唆を与えてくれる。