「頭の中がごちゃごちゃだ」。1953年11月19日の会議の最中にLSDを知らされずに飲まされ、その10日後にホテルの10階から落下して死亡するまでの間、陸軍化学部隊の特殊作戦部(SOD)の化学者フランク・オルソン氏は繰り返し訴えていた。
CIAと特殊作戦部のメンバーの会合で、オルソン氏らの飲み物に薬物を混入させたのはMK-ULTRA計画を率いたCIAの主任化学者、シドニー・ゴッドリーブだった。
1953年から1964年までコードネームMK-ULTRAの下で進められた人間のマインドをリプログラミングする研究では、薬物をはじめとする違法な実験が行われた。最終的に数千人が対象になったとされ、大勢の命、人生を破壊する結果につながった。
昨年末、SODのトップでオルソン氏の生涯の最期の数日間に付き添ったヴィンセント・ルウェット氏による証言資料が公開された。
それによると、オルソン氏は、元々社交的で人気者だったが、実験の翌日から変化しはじめた。動揺し、解雇を申し出るなど精神状態の悪化が見られたことから、専門家の診断が必要と判断。ニューヨークの精神科医でCIAの医療協力者の一人、ハロルド・エイブラムソン氏の診察を受けさせることになった。
移動中、オルソン氏は「非常に動揺し、極度に疑り深くなり、本人の言葉を借りれば”頭の中がごちゃごちゃになっている”」様子で、「誰かが彼を捕まえようとしている」と感じていた。マンハッタンのホテルで医師を待つ間、「すべての背後に何があるんだ?詳細を教えてくれ。彼らは私に何をしようとしているんだ?セキュリティーのために私をチェックしているのか?」と聞いたこともあった。
エイブラムソン氏は鎮静剤を処方したが、オルソン氏の状態は改善せず、むしろ悪化。早朝にベッドを抜け出して、外を歩き回って身分証と財布を捨てるといった異常な行動をとり続けた。
オルソン氏は一時的に帰宅する予定だったが、いずれにせよ逮捕されるのだから警察に突き出すよう言い張るなど、混乱がエスカレート。再びニューヨークに戻り診察を受けることになった。この時点で「非常に動揺し、興奮し」、「またしても、”頭がごちゃごちゃ”」のオルソン氏の状態は「最悪」になっていた。メリーランドの精神病院への入院が手配されたが、その直前の1953年11月28日未明、「ゴットリーブ博士からオルソン博士が亡くなったという電話を受けた」。最後に電話で交わした会話で、オルソン氏はルウェット氏に「大丈夫です。明日会いましょう」と告げていた。
隠され続けた薬物投与の事実
11月28日午前2時過ぎ、マンハッタンのペンシルベニア駅の向かいにあるスタットラーホテル(ホテル・ペンシルベニア)のマネージャーは、正面玄関から飛び出し、アンダーシャツとショートパンツ姿の男性が歩道に倒れているのを発見した。見上げると10階の部屋の窓枠からブラインドが押し出されているのが見えた。男性は「背中を地面につけ、脚はひどく砕かれ、不自然な角度に曲がっていた」。
警察と一緒に1018A室に上がると、MK-ULTRAの副ディレクターでオルソン氏と宿泊していたロバート・ラッシュブルック氏(MK-ULTRAの副ディレクター)がトイレに座っていた。ホテルの電話交換手に1018Aからの電話を聞いたか尋ねると、電話の声は「彼はいなくなった」と話し、向こうの声が「それは残念だ」と答えたと明らかにした。この時代に交換手による盗み聞きは珍しくなかった。
メリーランド州フレデリックに暮らすオルソン氏の家族に悲報を知らせたのはルウェット氏だった。同氏は、ホテルの窓から「転落または飛び降りた」と告げ、遺体は損傷を理由に見るべきではないとも説明した。葬儀は棺を閉じたまま行われた。
オルソン氏がLSDを飲まされた事実が判明したのは、事件から20年以上が経った1975年。フォード大統領の命令により発足した調査委員会「ロックフェラー委員会」の報告書が出るまで、家族や警察、司法解剖を行った当局者も知らなかった。
報告書では、LSDを投与される以前に被験者らが参加した議論では、そのような物質を知らせずにテストしないという合意があったとした上で、「しかしながら、この人物はLSDを与えられたことを、それが投与された20分後まで気づいていなかった」と説明。「彼は深刻な副作用を発症し、精神科治療のためにCIAの護衛によってニューヨークに送られた。数日後、彼は10階の部屋の窓から飛び降り、その結果死亡した」と結論づけた。
何も知らされていなかった遺族は政府を提訴する姿勢を示したが、1976年に75万ドルの和解金を受け入れ、政府に対して訴訟を起こさないことを約束した。
本当に自殺だったのか
公式見解への疑念はくすぶり続けている。
ロックフェラー委員会の発表から約10年後、父親が飛び降りた部屋を訪れた息子エリック氏によると、「部屋が狭すぎて、窓から飛び込むスピードを出すことは不可能」な上に、「窓台が高すぎ、幅も広すぎた。その前にはラジエーターがあった」。さらに1994年に棺を引き上げ検査したところ、「遺体がバラバラで、ガラスを突き破り落ちたために顔に広範囲の切り傷や裂傷がある」という当時の説明に反して、「遺体は防腐処理され、ほぼ完璧な状態だった」。この時解剖を率いたジョージ・ワシントン大学の法医学チームは、遺体の左側のこめかみに強打された跡があり、それが皮膚下に拳大の出血を生じさせたことを発見した。医学チームは「窓から飛び出した後にこのような出血が起こるはずがない」と見解を示し、「何者かがオルソン氏が眠っている間、または格闘の末に意識を失わせ、窓から放り出した」というエリック氏らの意見に同意した。
こうした状況は自殺説の否定へとつながっている。オルソン氏にLSDを飲ませたのは話を聞き出すためで、ニューヨーク行きは精神病を和らげるためではなく、オルソン氏がもたらすリスクを評価し、必要に応じて殺害することが目的だったのではないか。
知りすぎていたオルソン氏
フォートデリック基地に10年間勤務したオルソン氏は特殊作戦部の機密の多くを知っていた。英紙ガーディアンによると、ドイツで米軍が秘密裏に運営していた尋問場所のある都市を繰り返し訪れ、1951年8月にはフランスのポン=サン=テスプリに滞在していた。このとき、村全体が集団ヒステリーと精神錯乱に襲われ、200人以上が苦しみ数人が死に至った。原因はLSDの原料となる麦角菌による中毒だった。ガーディアンはさらに、朝鮮戦争で生物兵器が使用されたとすれば、オルソン氏はそれ知っていたであろうと指摘。彼がリークするかも知れないという可能性は政府にとって恐ろしいもののはずだった。
1953年の春、オルソン氏はイギリスにある極秘の微生物学研究施設を訪問し、そこで被験者がサリンを投与され死亡するのを目撃した。このとき、オルソン氏は研究を主導する精神科医ウィリアム・サーガント氏に不快感を漏らしたとされる。この一月後に訪れたドイツにあるCIAの秘密場所で、自ら製造した兵器により人々が死ぬ姿を目にした。再び英国に戻ったオルソン氏と再会したサーガント氏は、面会後に上司に宛てた報告書で、オルソン氏が機密を漏らす危険性を警告していた。
CIA長官アレン・ダレスはオルソン事件の報告を受けながらも調査を抑制し、実験責任者ゴッドリーブは1972年まで化学部門のトップに居座った。ゴッドリーブ本人の言葉によれば、オルソン氏の死は、計画にとって「些細な代償」に過ぎなかった。違法な人体実験やLSD投与が数千人に及んだにもかかわらず、関与者の刑事責任が一切問われなかったMK-ULTRA計画は、国家権力の暴走と官僚機構の無責任性という現代に通じる重要な課題を投げかけている。